中谷比佐子の着物ヒストリーー2

昭和10年代、男も女も着物を着て生活をするのは日常であった

その当時の中流階級の癒えには「女中」というお手伝いが一緒に住んでいるのがふつうであった。近隣の農家の娘、または子供の多い家の女の子が「行儀見習い」という形で、自分が育っている家よりちょっと上の文化的な家庭環境で、着物の手入れや仕舞いかたや着方、料理の基本、味付けや什器の取り扱い、掃除の仕方、来客へのお茶の出し方、子供のいるところは、子供の子守やあやし方、つまりは家事一般のすべてを習得するための女中奉公なのだ


私の父は職業が弁護士だったので、女中さんのほかに「書生」がいた。住み込みの人と、通いの人がいて、ともに法律の勉強のほかに、庭の掃除や、水汲み(井戸の水を使っていた)薪割り、などの力仕事もしていた。そのころのご飯は薪で炊いていたし、風呂も薪を燃やして沸かしていたので、薪割りは重要な男の仕事だった

台所を受け持っていた女中さんは年配で、私が生まれたときにもういたので、随分長い奉公人だったのだろう。掃除洗濯などこまこました仕事をしていた女中さんは、10代だったと思う。ともに絣の木綿の着物を短く着て、たすきをかけ、エプロンをしていて冬は赤い別珍の度をはいていてかわいいなあとおもっていた。

年配の女中さんは、姉たちに料理や着物の手入れを教えて、いつも手ぬぐいで姉さんかぶりをしていたのが印象的。きっと髪の毛が落ちるのを避けていたのだろう。

母が外出するときは、いつも帯結びを後ろで手伝い、脱ぎ捨てた家庭着の着物の整理をしていた。私はそばで腰ひも持つ係に任命されていた。

物心ついた時、姉二人は女学校の生徒で、二人の制服姿がまぶしかった。しかし家に帰るとすぐ着物に着替え、まず家のことを手伝って、食事が終わると部屋に入って勉強をしていた。彼女たちが着ていたのが「銘仙」で、紫と黄色の色がやけに美しく私の目に映った。

二人はお休みの日は、きものをお召や大島に着替えてお稽古に通っていた。上の姉は茶道、下の姉はお琴に熱心だった。家でもよくお琴を弾いていて、私に教えてくれていた。


今でも思い出すと笑う

ある初夏母が年配の女中さんに「今日はおじやにするわ」という会話を耳にし、私は母の袖を引っ張って「おじやはいや、おじやはいや、おじやにないのにして!」

二人ともぽかんとしていて、泣いてる私を見ていた女中さんが「ああーヒサコちゃんは食べるおじやと間違えているのね」と大笑い。「おじやっていう着物があるのよ」と触れせてくれて、やっと安心した記憶が今も残る

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